歴史上トップの「何でもあり」な時代。だからこそ生まれる「生き方」「進路」「方向性」「選択」の悩みへの向き合い方について考察してみた。

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自分の人生の方向性、どういうスタイルで生きていくのか。そこで悩むことは多いのかもしれない。

 

よく言われることではあるけれど、価値観が多様化することによって生まれるマイナス面は、方向性への不安や、将来への不安だったりする。

 

以前であれば、「こうしていればこうなる」式の保証みたいなものがあった。

 

だからやるべきことは明確で、悩みは少なかった。

原始時代だったら、獲物を狩って、素敵なパートナーを見つけて、子供を育てる。

 

ただそれだけでよかった。

 

よく「思考停止はよくない」と言われるけれど、人生の方向性という意味で思考停止になることは割と重要なこともあるとおもっていて、

方向性そのものについて考え続けるのはしんどいことであり、なかなか前に進めない原因や、気づいたら年を取っていて何もできていない状態の原因にもなり得る。

 

実際、「結婚して子供を育てる」という昔ながらの普通とされる価値観で生きている人の幸福度は割と高いんじゃないかと思う。

知らんけど。

(パプアニューギニアの人たちって、うつになったりしないらしいし)

 

思考しろ!!という新しい常識すら疑っていく必要はあるのかもしれない。

難しいこと言ってすいません。

 

まあ「それでさ、結局のところ自分は幸せ感じてる?」っていう本質だけを見続けようってことですね。

 

 

 

話を戻して、今は結婚しないという選択肢もあるし、子供を産まないという選択肢もあるし、もちろん結婚したって子供を産んだっていい。

転職だって普通になった。

就職しない人もたくさんいるし、副業だって解禁されている。

 

要は、何でもありな時代なわけだ。

 

 

ここまで何でもありな時代になったことって多分、歴史上1回もないんじゃないかな。知らんけど。

 

まさに今自分たちは、今まで多分歴史上ありえなかった世界に生きているわけで、

だからこそ、そこにうまく対応できないケースというのも出てきていると思う。

 

ここまで選択と決断が個人に委ねられることは多分今までの歴史上ない。

 

だから、自分の方向性やどうしたいかで悩むのは、自分のせいではなく時代の変化のせいの部分があるので、自分を責める必要はないです( ̄∀ ̄)

 

 

で、時代に対応できなくなるというのはどういうことかと言うと、自分の価値観を自覚できない、自分が自分で「これでいい」と思える道を定めきれない、ということ。

 

何をしても「これでいいのかな」と感じられる時代だから、自分の選択に自信が持てなくなる。

特に、情報に接する機会の多い人ほど、そうなると思う。

 

最先端の情報を追いかければ追いかけるほど、それ自体が悪いことではないけれど、人生の選択に関する悩みは増えるのかもしれない、と思う。

 

多すぎる選択肢というのは、人を混乱させる。

 

 

こういう時代に大事なのは、自分の価値観を自覚すること。

 

自分は何に惹かれて、何に喜びを感じて、何に楽しさを見出せるのか。

そこを、周りの価値観、周りの人の声を可能な限り無視して、自分の気持ちを感じて、俯瞰的に見ていくこと。

 

その作業を一人一人がやっていく必要があるな、と思う。

 

ここには、二つの道がある。

 

科学的にも効果があるとされる方法で、トップダウン方式とボトムアップ方式だ。

 

自分の価値観を明確にする方法については様々な機関が研究を重ねていて、イケジュン個人的な感覚から見てもなかなか使えるな、というものがある。

 

その方法論については、イケジム限定で公開します。

 

自分の気持ちを基準にする力


 

 

ということでそこは置いといて、別の観点から書いていく。

 

まあ結局は、自分の気持ちを俯瞰して見られるか、ということになるのかなと思う。

 

例えば、イケジュンは個人的には、普通であっても普通でなくてもどっちでもいい。

 

大事なのは、普通であるか普通でないかより、自分がそれで幸せなのかどうかだ。

 

軸は常にそこにあって、

例えば結婚に関しても、結婚はする派だったりする。

 

割と普通の家庭がいいなと思っていたりするわけで、普通に子育てして、子供が学校行って、というのがいいなと思う。

 

自分自身の生き方は普通じゃないかもしれないけど、そういうところは普通でいいというか。

 

なぜなら、それが一番自分にとって居心地が良さそうだから。

家族は安心空間でいたいし、家族がいないというのは寂しいと思うし。

 

もちろん、それ以外の生き方や考え方を否定するつもりは一切ない。

 

言いたいのは、常識かどうかとか常識外れかどうかは関係のないことで、そこは判断の材料になっていないということ。

 

常識通りだろうが、常識外れだろうが、あくまでも自分がそれで本当に幸せになれるかだけが基準だ。

 

 

常識に対する反抗心、普通に対する抵抗感も別にない。

 

自分がそれで幸せになるかどうか。

それだけが選択の基準である。

 

常識や普通に対する反抗心は、逆の意味で常識や普通に縛られている不自由な状態だと思う。

 

普通を愛することでこそ、本当の意味で「普通というもの」から解放されることができるんじゃないか、と思ったりする。

要は、普通かどうかで判断するのではなく、それで幸せかどうかを判断基準にできることこそが普通からの解放なんじゃないか、ということ。

 

で、結局言いたいのは、自分のハートを感じる、つまり、そういう本質的な部分を感じる力が大事だ、ということ。

 

 

「それでさ、結局、幸せ感じてる?」

 

 

ってところ。

 

そこが自分の価値観なわけだからね。

社会の言う通りにしているから安心とか、普通とは外れてるから優越感とかじゃなくて、

 

 

「で、結局、自分は幸せなの?」

 

 

ってところを見続けていくこと。

 

それが大事なんだと思います。

 

 

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