「やりたいから、やる」という感覚で

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「…ダメか」

書けない日々が続いている。そろそろ限界だ。スマホを取り出し、電話する。

「何?」

「ステーキでも食わないか」

「いつもいきなりね。どうせ、煮詰まっているんでしょう?」

「まあ、そういうことだ」

「自分の都合の良いときだけ私を誘うわけ?」

「そういうわけじゃないが、そう取られても仕方ないな。嫌ならいい」

「嫌じゃないけど」

「お前しか誘える奴も、誘いたいと思うような奴もいないんだよ」

「そうやって言えば許されると思って」

「本当のことだ。19時に、いつもの店」

「分かった」

書けないとき、書かなければと思えば思うほどに書けなくなる。これは、書くということだけに言えることではないだろう。

一時期、自分を追い込んで書くことを続けていたが、結局書けなくなった。書けなくなったどころか、書くことが嫌になってしまったのだ。

書くという行為が自分を苦しめるようになった。もとはと言えば書きたくて書いていたにも関わらず、書かなければならないものになった途端に、それは自分を苦しめるものに変わってしまった。

物書きには締め切りというものがある。だから、本当に自由に書くことができるわけではない。しかし、だからといって、書かないことを自分に許可していない状態では、結局書くことはできない。

そのことに気づいてから、休むことを自分に許可するようになった。

書けないときは、好きな女と美味い飯を食い、一人でバーに出向き、書くことを忘れる。

そうやって書かないことを自分に許可したときから、書くことができるようになった。不思議なものだと思う。書かなくてもいいと思った瞬間に、書きたくなることもあるほどだ。

何かが義務感になった途端、胸のあたりがズシリと重たくなる。その胸の重たさはそのまま書くことへの重しとなり、自分の手を止める。

その胸の重たさを抱えたままに無理に手を動かすこともできるが、続かない。続かず、良いものも書けない。そして、その瞬間、自分自身が満たされてはいない。

「俺は、書きたくて書いている」

その感覚を自分の中に持っていたい。

そのためには、書かないことを許すことが実は大事なことなのだ。

時計を見る。18時30分。

「そろそろ行くか」

あいつはいつも遅れてやってくる。しかしそれが分かっていながらも、結局時間通りに到着してしまう自分は、これからも変わらないのだろう。

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