<この物語はフィクションです>
「東大ではさあ…」
一人で静かに飲もうと思っていたが、隣の席の会話が嫌でも聞こえてくる。15分前くらいからだろうか。
1時間ほど前から1人で飲みに来ていた女に、男が声をかけた。
男の見た目は悪くない。それなりに、何かで成功しているであろう雰囲気はあったが、醸し出ているというより、醸し出そうとしているところに、その男の本質が見える気がした。
この15分の間に、男が一流企業に勤めていること、年齢は32歳であること、東大出身であること、テニスを嗜むこと、おいしい料理屋をたくさん知っていること、家が近くであることなど、その他かなりの情報を男は女に発信していた。
男の東大時代の話が繰り広げられていたが、女は関心のなさそうな表情でワインを飲んでいる。
バーに入ってきたときから、安っぽい女ではないことは感じていたが、その感覚は間違ってはいなかった。
あの男は、惚れられることはないだろう。
都合良く利用されてもおかしくないが、そんなことをするとも思えない雰囲気を隣にいる女は持っていた。
一流企業に勤めていることを武器にした途端、一流企業に勤めていることは武器ではなくなる。
東大出身であることを武器にした途端、東大出身であることは武器ではなくなる。
対人関係において、何かを武器にしようとした途端、その何かは武器としての機能を果たさなくなる。
それらを武器として使おうとした魂胆、武器として使う「必要があった」その奥底にある思いの方が垣間見えてしまうのだ。
なぜか分からないが、表面上の言葉より垣間見えた奥底の思いの方が、強い説得力を持ってその人間の有り様を物語る。
男よりも女の方が、その垣間見える人間の有り様に敏感だと思っていた。
そういったことが分からないうちは、そして、なぜそうなるのかが腑に落ちないうちは、あの男が隣にいる女を口説くことはできないだろう。
目には見えないが、男と隣にいる女の間に何らかの「差」があることは確かだった。
その「差」は、埋めようとしても埋まらない。埋めようとすればするほど埋まらない。
しかし、そのことに気づくまでに、あの男はどれくらいかかるだろうか。
そんなことを考えていると、男が席を立った。
この後大事な予定があるのだそうだ。
事実なのかもしれないが、口説こうとした女に関心ない素振りをされ、気まずくなったその場から逃れるための言い訳に聞こえてしまう。
男の行動は、全てが「裏目」に出ているように感じる。
男は、そのまま店を出た。
女は、何事もなかったかのようにワインを飲み続けている。
5分後。
別の男が入ってきた。
女の隣に座ると、2人で話し始める。知り合い、いや、会話の内容、雰囲気からして恋人同士か。
あの女の恋人がどんな男なのか気になったが、3分ほど話すと、2人は店を出た。このバーが、待ち合わせ場所だったのだろう。
2人がいなくなると、店内に人はほとんどいなくなった。
「マスター」
「何でしょう」
「あの二人は、よく来るのか」
「女性の方は初めて見ましたが、男性の方はたまに来られますね。あの男性は、あのとき話した上司の方です」
「ああ、なるほど。そういうことか」
「何か感じられましたか?」
「いや。男の方はすぐに帰ったからな。ただ、あの女と付き合っているというだけでも、面白そうな男だ」
「次は、一人で来られるといいですね」
「そのうち、話すことになる気がしているよ。
それにしても、あの男、あれだけ全ての行動が裏目に出るのも面白いな」
「行動の根本の動機こそが伝わるものですから」
さすがに、よく見ている。
行動の根本の動機とは、よく言ったものだ。
次の小説にはあの男とマスターのような人間を描いてみようかと思いながら、店が閉まるまで飲んでいた。
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