自分を持つことで、「急かされている感」から抜け出せる

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心がモヤモヤしている人に会って話しているときに感じるのは、

「何かしなきゃいけない。でも、その何かがない。(もしくは、できない)ああ、何かしなきゃヤバイヤバイ…」

という感じになっている人が多いということ。

何かすることを急かされているというか、それがないと自分には価値がないと思っているというか。

その状態のときって、たとえその何かを見つけたとしても「義務感」から逃れることはできないんですよね。

そして、そのときは「楽しい」とか「情熱的」とか、そういう状態とは無縁。

何もかもが「仕方なくやっている」「苦しみながらやっている」状態になっている。

楽しくて情熱を感じながらやっている人が、どんどん前に進んで行く。どんどん行動しているように見える。

そういう人を見て、自分を振り返る。

その人基準で自分を判断する。

ああ、自分は何もやっていない。何かしなくちゃ…

そこがスタート。そこがスタートだから、いつも急かされている。

急かされているっていうのは、実は他人の目を気にしているということなんですよね。

他人の目を気にしているから急かされていて、他人の目から見て自分が評価されるような日々を送ろうとするわけです。

そのときって、何か自分を監視するもう一人の自分がいて、

「おいおい、何しているんだ。もっと頑張れよ。(じゃないとあの人に怒られるぞ、もっとやれって言われるぞ、そんなんでいいのか)」

と言われているような感じになる。

結局、その心の声は妄想で、別に何かをしていなくても他の人は自分になど関心はないしほったらかしにしているものなのですが、

自分ではそう感じられなくて、何となくいつも自分を監視して、その監視している自分は自分なのだけど本当は他人だったりするものなんです。

要は、結局他人の目に縛られているよね、ということ。それが良い悪いではなくてね。

「は、今しんどいから休んでるだけやし。ぼけ!」

と言えばいいのに、

「あ、休んですいません。すぐ、やりたいこと探しを始めますので。あ、すぐにやりますので、はい、はい……」

という感じになってしまう。

「別にやりたいこととか、ないし!あほ!」

と言えばいいのに、

「すいません、やりたいことないんです……」

と、なせか謝ったり卑屈になったり自分を責める。

なぜ、今の自分をまずは認めてやれないのか?受け入れてやれないのか?

それ結局、他人の目を気にしすぎているから。

他人の目で、他人の基準で、自分を監視して、自分を判断しているんですよね。

だから、いつまで経っても苦しい。

自分が好きだからやってる。自分がやりたいからやってる。

その状態になれない。

急かされていたらその状態にはなれない。いつも「やらなければならないモード」から抜け出せない。

「楽しい」とか「情熱的」とか、そっちの原動力の方が絶対良いモノができるし、良い人生になります。

じゃあ、どうすればそういう状態になれるか。

その状態になれないでいる自分に気づき、そのメカニズムに気づき、その自分との一体化を終わらせること。

つまりは、この文章を読んだ時点で、先に進んでいるということです。

まだまだ伝える必要のあることはあるのですが、焦らず、今後の記事の中で書いていければと思います。

今日は最後の出版記念トークライブ。気合い入れていきます。

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