なぜ、必死の努力を重ねていた人が「何もしない時期」を過ごし始めるのか?

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例えば、アルバイトをしたとして、ミスを連発したとする。

すると、先輩から怒られた、上司から怒られた。

 

それは、当然のこと。 もちろん怒り方には色々とあるだろうけれど。

そこで怒られるということは別にその人を否定したいわけでもなければ、根本的にダメな奴だと言いたいわけでもない。

 

アルバイトというのはお金をいただく仕事なわけだから、きちんとミスなく仕事をやってもらわないと困る。

 

だから、ミスをすれば怒るし、できなければ注意もする。

 

もしもお店が超意識の高いお店だった場合、怒られ、注意されることも多いはずだ。

ただ、これまで強く自分を否定してきたとか、できないことと自分の存在が密接に関係性をもたされすぎてきた場合、

怒られることや注意を受けることがそのまま「ダイレクト」に自分自身という存在を否定された、と受け取ってしまう。

 

すると、ダメージが大きい。

 

この「ダイレクトさ」には、個人差がある。

 

大事なことは、それをダイレクトにする必要はないのだと知ること。

(そのために「200%」という概念を伝えたりもしている)

 

そこが「ダイレクト」であればあるほど、傷つきやすくなるし、落ち込みやすくもなる。

 

例えば、女の子にフラれた。

そのときどれだけのダメージを受けるかどうかは、「ダイレクト加減」による。

 

ダイレクト加減が高ければ高いほど、ダメージは大きくなり、最悪の場合、もう二度と女の子に気持ちは打ち明けない!となる。

 

一方、「自分の魅力をうまく伝えることができなかったんだな」「立場上仕方ないな」「タイミングが悪かった」「相性が合わなかった」「会話、ミスった」

などと、自分の存在の否定にまで入らない、つまりはダイレクト加減が低い人は、

次の恋に進んでいけるし、恋愛に対する特別な苦手意識も持たないでいられる。

 

「ま、そんなもんだろう」で進めばいいと知っている。

 

「ま、そんなもんだろう」で進めないと、自分という存在について考え始めたり、深刻に物事を捉え始め、重くなっていく。

 

今まで、ダイレクトに「何かができるできない」が自分の存在価値と密接に結びついていた人が、そうではなかったのだと気付くと、

 

何もしない時期

 

 

を過ごすことがある。

 

その時期に何をしているかといえば、「自分という存在自体」を愛しているわけだ。

 

何かができるかできないかとか、そんなことは関係なかったのだということを「体得する」時期だとも言える。

 

つまりは、「無条件に自分を愛すること体得期間」を過ごしている。

 

これまでの条件付けを「落としている」わけだ。

 

ある意味、「ダイレクトさが低い」ということは、自分に対する条件付けが少ないということだとも言える。

 

その時期を過ごした人は、強い。

 

どんなことがあっても揺るがない、弱さを受け入れ、条件付けのない強さを身につけている。

(それはそのまま「他人に対する条件付けのなさ」にもつながっていくから、対人関係も良くなっていく)

 

そして、ある意味、「もっと人生を楽しむために」何かをし始めるのだ。

 

そういう人は、これからは全てが「遊び」になっていく。

 

それはすなわち、「自分はすでに100パーセントである」と知り、「200パーセント人生を楽しむため」の遊びだ。

 

遊びで自分を追い込むこともあるかもしれないし、遊びで誰かを注意するかもしれないし、遊びで「もっと」を求めるかもしれない。

 

しかし、そこに深刻さはない。

 

全ては遊びであることを知っているからだ。

 

だから、もし今「何もする気が起きない」という人も心配しないでほしい。

 

それは後退じゃない。

 

無条件に自分を愛するとはどういうことなのかを体感したいと思っているがゆえに、そうなる。

 

今までの条件付けが薄れてきたから、条件付けによって自分を頑張らせる必要がないのだと気付いたから、

これまでの条件付けで自分を動かせなくなってきた、というだけのことだ。

 

だから、安心してほしい。

(大体そうやって意識が進んでいる人は、「でもお金はどうしよう?」と悩み始めるもの)

 

もうあなたには、条件付けられた人の叱咤激励は届かない。

 

そこに戻りたいとは思えない。

 

ただ、戻りたいとは思えないけど、このままでいいのかという心配もよぎるだろう。

だから、叱咤激励がすごく気になる。

 

やっぱり戻った方がいいのか?と思う。

頭の中の議論が行ったり来たりして悩み始める。

 

でも、安心してほしい。

もう少しすれば、「二元論を超える」ことができるから。

 

「頑張った方がいいのか?」「頑張らない方がいいのか?」という二元論を超えるときが来る。

 

二元論的思考に囚われているときは、あっちかこっちかで永久に結論は出ないが、

 

その二元論を超えることができたとき、パッと視界が晴れる。

 

かの天才アインシュタインさんも、そんなことを言っていたはずだ。

 

 

もっと遊ぼう、もっと楽しもう、もっと人生を「体験しよう」と思うようになる。

「体験」こそが重要になってくる。

 

自分にとって好きな遊びを追求したいと思うようになる。

 

それは別に、自分の価値を誰かに証明したいとかそういうことではなく。

 

すでに証明されているものを証明する必要などない。

すでに証明されている三平方の定理を、

 

「三平方の定理は、正しいんだよー!!!!!」

 

と必死になって誰かに証明したところで、「そりゃそうでしょ」と言われるだけだ。

 

そんなことをされても、ちょっとうざいな、と感じてしまう。

 

そんなことは、分かりきっていることだから。

 

そんなことよりも、

もっと人生を楽しもうとか、もっと人生を体験しようとか、そういう風でいいんだと思う。

 

もっと失敗もすればいいし、うまくいかないことも経験すればいい。

そうやって体験しながら、もっともっと遊べばいい。

 

色んな体験をして、色んなことを感じて、感動して、生きていけばいい。

 

少なくとも自分は、そんな風に思うようになってきました。

 

ちょっと長くなったので、今回はこのへんで。

 

 

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