いつから、本当は好きなことを「嫌い」ということしたのか?


生きていれば、傷を負うことがあります。

肉体的なものではなく、精神的なもの。

振られたとか、いじめられたとか、仕事が上手くいかなかったとか、怒鳴られたとか…

何でもいいですが、そういった経験の中で、「恐怖」が生まれる。

 

例えば、

あなたが、レストランにいるとしましょうか。

一緒にいる人は、あなたにとって大切な人。

あなたはお酒を飲んでいたこともあって、少し酔いが回っている。

そのとき、何の悪気もなく言った、一言。

その一言を聞いた相手は、目を見開き、表情が曇り、言葉を発しなくなる。

…沈黙。

おかしい、と思い、自分の発言を振り返る。

すると、取りようによっては、その人を傷つけるような発言になり得ることに気づく。

自分はそういうつもりで言ったのではないけれど、そう取ることもできる。

でも、言ってしまった言葉は、もう、引っ込める事はできない。

その人とは、まだ親身に打ち解けた仲であるわけでもなく。

そういうつもりではなかったんだ、とあえて言うことも、どこか不自然な気がする。

そういう風に釈明するということそのものが、失礼に当たる気がする。

だから、何も言えない。

言いたいけど、そういうつもりじゃなかったんだと伝えたいのだけど、それもできない。

結果、何だか気まずい空気が流れ、心の距離は埋まらないまま、帰ることに。

 

こういう経験から、

自分は発言をすると、人を傷つけてしまうかもしれない

と、深く考え込んでしまったとして、

人を傷つけたということが自分の傷になる。

優しいあなたは、もう人を傷つけたくないと思い、積極的に話すことをしなくなる。

特に、自分が大切だと考える人の前では、話せなくなる。

話すことが、恐怖になる。

でも、話したい。

気兼ねなく、話したい。

ホントは。

 

私にも、多くの傷がありました。

そして、その傷が原因で、自分に正直になることができず、いつもどこか不満を抱える日々。

そんな自分を変えたくて、その傷を乗り越えたくて、

自分と向き合ってきたのだと思います。

恐怖があるから、できないこと。

でも、恐怖がなければ、やりたいこと。

そういうものが、ある。

だから、その恐怖を乗り越えたい。

そう思って、向き合ってきた。

恐怖を恐怖のままおいておけば、人生の自由度が下がります。

自分が本当にしたいことができない。

恐怖がなければやりたいことは何か?

そう考えたとき、色々と思い浮かぶのであれば、

恐怖に邪魔されて自分が本当にしたいことをできないでいる、ということ。

だから、大事なことは、恐怖と向き合うこと。

恋愛に臆病になったのはいつからか。

いつから、本当は好きなものを「嫌い」「どうでもいい」と言い始めたのか。

自分に正直になるってことが大事なのですが、

それは、自分の弱さを認めることでもあります。

本当はしたいのだけど、怖くてできないのです!

と素直に認められるかどうか。

そう素直に認めることが、スタートラインかな、と思います。