何か、上手くいかないことが起こった男が、ここにいたとしましょう。
かなり頑張って勉強したのに、結果が出なかった。
仲の良いあいつは、結果を出しているのに…。
しかも、そいつが、自分の好きな子と楽しそうに喋っている。
「えー、何これ!すごいじゃん!頭良いんだね!」
聞きたくない。
「俺、今日、用事あるから帰るわ」
ただ、その場から離れたくて、教室を出る。
用事なんてない。
街を歩いていると、美男美女のカップルが手をつなぎながら歩いている。
くそ。
そのとき、こう思う。
「お前らの幸せなんて長続きしないよ。俺は、勉強して高い地位に上っていく。
俺に恋愛なんてしている暇はないんだよ。
せいぜい、平和ボケしているがいいさ。
これから、社会は下り坂。そうやって、仲良く遊んでいたりして平和ボケしている間に、どんどん生活は悪くなっていく。
ふふ。
俺は、それを知っている。俺は、分かってる。
恋愛なんて、どうでもいいのさ。オシャレもどうでもいい。
別に、女になんて興味はないし、オシャレして媚びるつもりもない。
そんな暇があったら、俺は勉強して、上にいく。
仲良しごっこでワイワイやってる暇は、ない。
社会を斜めから見ることができている俺は、すごい。
なぜか女の子は寄ってこないが、まあ、頭の悪い子に寄って来られても困るしな」
そうやって考えながら歩いていると、お腹が空いてくる。
「飯でも食うか…」
スマホを取り出し、一緒に飯を食う奴を探そうと、LINEを開く。
気軽に誘えるような奴がいない。
「……何だよ。ろくな奴がいねえな。もっと面白い奴、いないのかよ」
近くにあった牛丼屋に入り、周囲に目を配る。
知っている奴は、いなさそうだ。
入り口が開き、「いらっしゃいませー!」という声が聞こえる度にピクっと反応することを繰り返しながら、
急いで牛丼をかき込んでいく…
私たちは、自分を正当化しようとします。
自分の弱さを認められず、自分を受け入れられずにいれば、その姿勢はより強くなる。
本当は、好きな子と話したい。
でも、上手くいかないことがあって、自分に自信もなくて、誰かと話している姿を見て、
心がねじくれる。
本当はしたいことがあるけれど、それができない。
そのとき、現実を否定したくなる。
この現実世界に「否」を投げつけることで、自分を保ちたくなる。
俺が間違っているのではない。世界の方が、間違っているのだ。
事実、世界にもおかしな点はいっぱいある。
だからこそ、自分のアイデンティティは保たれる。
その動機が何であったとしても。
「自分の望む生き方が先にあって、それが世界とはズレてしまう。それでも、望む生き方をすることを選ぶ」のではなく。
まず、世界が間違っていると思いたい。
まず、現実世界を否定したい。
その思いが、先にある。
なぜか?
心がねじくれたから。
劣等感や妬み嫉み。その心が、この現実世界を否定したい心を創った。
そして、自ら否定的に世界を見ることを望んだ結果として、世界の「間違っている」点を発見する。
内心、ほくそ笑む。
そうだろう、やっぱり、世界は間違っているだろう。
ふはははは。
ちょっと怖いね。笑
この姿勢はまさに、ルサンチマンそのものです。
まず、世界を恨んでいる。まず、妬んでいる。
うじうじしている。
ただ、この姿勢が「悪い」わけではなく、この姿勢で生きることで一時的に救われる人もいます。
自分を正当化できるから。
弱い自分、できない自分を見なくて済むからです。
こういう姿勢になる時期は、多くの人にとってある。
だから、悪いわけでもない。
上手くいかないとき、人は現実や自分を否定したくなるものです。
でも、そういう「うじうじした自分」から、抜け出していくこと。
「うじうじ君」「うじ子ちゃん」と呼びましょうか。笑
それはつまり、
この世界や、現実や、自分や、人生に、「OK」を出すこと。
それが、やっぱり大事で。
街を歩くカップルを見たら、
「お!幸せそうでいいな!俺も今はいないけど、彼女を作ろう。よし、カッコイイ服でも買って、オシャレな美容室に行くか!」
と思う。
みんなでワイワイ仲良さそうにしている友達がいたら、
「ちょと待てちょと待てお兄さん!いいないいなー!俺もいれてくれよ!寂しいじゃん!」
と入っていく。
ねじくれるのではなく、素直に、正直に。
できないことがあるならできないと認め、
苦手は苦手と受け入れ。
今のこの自分からスタートしていく。
自分の気持ちに嘘をつかない。
そういう姿勢が、大事なんじゃないかと思います。
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