「正しい生き方」ではなく、「その人にとっての楽しい生き方」がそこにあるだけ。

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人生はとりあえず自分の好きなことやりたいことをやってりゃーいい、という感じだと思う。

ただ、そのときにぶつかるのが「正しさ」ってやつだ。

 

正しさから生まれる罪悪感

 

によって、好きに生きることはできなくなる。

 

例えば、「結果を出すことだけが正しい」という人からすれば、結果を求めずにのほほんと生きていたら「あいつは間違ってる」ということになる。

そう思われても一切気にせずに生きるということが幸せに生きる道だと思うのだけど、そうはいかないケースが多い。

 

「私が間違ってるのかなあ?」

 

これだ。

 

基本、「私が間違ってるのかなあ?」という自分への問いから不幸は生まれると言っていいと思う。

 

で、「私は別に間違ってない。てか、そんなことはどーでもいい。自分の好きに生きていい」という許可を出すことができたときから、変わっていくわけだよね。

 

別にのほほんと生きていい

 

と思えることが重要。

 

実際、のほほんが幸せな人はどんな人が何を言っていたとしても、のほほんと生きている。

 

逆に、何かにチャレンジしたい人は、チャレンジすればいい。

のほほんとしている人がいても、そこに罪悪感を感じる必要はない。

恋愛が大好きな人は恋愛をとことん楽しむ人生を生きればいい。

 

結局、「正しい生き方」なんてものはない。

「その人にとっての楽しい生き方」がそこにあるだけ。

 

ただ、劣等感に苦しんでいると、「正しい生き方」を無意識に押し付けようとする。

劣等感に苦しむ状態だと「自己正当化」をどうしてもしたくなるから。

 

そのエネルギーというのは批判や否定、責めのエネルギーであって、

自分の願望に気づいてしまった、正しさや自己正当化で自分を保つ必要性のなくなった人は、そういう場所にはいられなくなる。

 

その人がどこにいたいと感じるか?でその人の意識状態というのは大体わかるもの。

 

自己正当化で自分を保つ必要性を感じている状態なら、「あいつらは間違ってるよねえ」という会話が日常的に行われる空間の方が心地良いはずだ。

 

そちらの方がどこか「パワフル」に感じられる。否定のエネルギーがそこにあるから。

 

否定的な物言い、言葉、エネルギーの方が重いし苦しいけれど、強い感じがする。だから、弱さを認められない場合、そういう場所にいたくなる。

 

ただ、だんだんと意識が上がってくると、その会話自体が居心地の悪いものになってくる。

自己正当化のエネルギーそのものが「なんか違う」と感じさせるわけだ。

 

その感覚を感じ始めたなら、素直にその感覚に従って、他人の生き方を認めつつ、自分の好きに生きればいい。

自分の「楽しい」をただ追求すればいい。

そこに罪悪感を持つことなく。

 

「正しさ」と「正しさが生む罪悪感」。

 

もう、そこから解放されていい。

 

 

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