自分がどう在りたいのかを忘れない。
これってかなり大事なことで、
よく「私たちは結果そのものじゃなくて、その結果を得ることで感じる感情を感じたいのである!」と言われる。
これを別の言い方をすると、自分の在り方を感じたい、ということなんじゃないかと思うんだ。
例えば、失敗した。
そのとき、普通は凹むし、感情的にネガティブなものを感じる。
ただ、そこで、
「ああん、失敗なんてするもんでしょ。大丈夫」
みたいな姿でいられたとする。
すると、嬉しいはずなんだ。
嬉しいというか、誇らしいというか。
そういう自分でいられること自体が嬉しいし楽しいというか。
「ああ、自分はこういう状況でも堂々としていたられたなあ」
みたいな喜び。
そういのってあると思うんだよね。
で、現実的に考えても、そういう在り方でいられたならもう一度チャレンジすることができる。
在り方を整えたから、その喜びを知っているからこそ、うまくいく。
例えば、目の前にうまくいっていないと感じている人がいた。
普通だったら、その人を見て「こいつはダメだな」とジャッジする。
でも、そこでその人の可能性や本来の姿に目を向ける。
そうすると、「そんな自分でいられたこと」に喜びを感じられるんだよね。
「ああ、自分はどんな人の中にも可能性や光を見ることができたなあ」
みたいな。
で、そこを高めていけば、そういう在り方でいられれば、うまくいかないはずがない。
大事なのは、自分はどう在りたいのか?をイメージしておくこと。
でも、現実を生きていると、そう在れないんじゃないか?という場面がたくさん起こる。
失敗する
思うような結果が得られない
他人が「まじで?」というようなことをする
ネガティブな人や状況が現れる
といったようなことが起こる。
そのとき、その「目の前の現実」だけを見るなら、ネガティブになるしかない。
そして、そのネガティブな状態からはアクションを起こそうとは思えないし、起こしたとしても分離感が強まる結果になったりする。
そこで思い出す。
自分はどう在りたかったのか?
どういう自分でいたかったのか?
どんな自分を感じたかったのか?
ある意味、そこを目的にすればいい。
じゃあ、結果は関係なくなる。
ただその在り方で目の前のことをすること、が大事になる。
そうすると、結果がついてくる。
自分が他人の良いところを見たからといって、みんなが自分の良いところだけを見てくれるわけじゃない。
自分が誰かを愛したとしても、誰もがその愛を素直に受け取ってくれるわけじゃない。
そのとき、他人の良いところを見ることも、誰かを愛することもやめたくなるかもしれない。
ただそこで、自分の在り方だけを目的にする。
自分は、どんな自分でいたかったのか?
自分は、どんな自分を感じたかったのか?
そこを目的にすれば、他人は関係ない。
コントロールできない他人がどうするかで自分の幸不幸を決めるのではなく、
自分が自分の在りたい姿で在ることの喜びを知る。
そこが大事なんだということを知る。
失敗したとしても、
「俺は自分のやりたいことを言い訳せずにやれた。そう在れた」
振られたとしても、
「自分の好きだという気持ちに嘘をつかなかったし、きちんと伝えることができた。誰かを愛せた」
という、自分がどう在れたのか?に意識を戻す。
そうすれば、心の中は楽になるし、むしろ誇らしくなるはず。
失敗した自分を誇らしく「感じる」ことができる。
それがある意味、状態を上げるということ。
失敗したということは、チャレンジできる自分で在れたということであって、
恥じるべきことでも凹むべきことでもない。
むしろ、誇らしいこと。
そういう自分で「在れた」ことに喜びを感じていいんだ。