劣等感や自信のなさに苦しむ。
その毎日は、あまり幸せなものとは言えない。
この記事では、どうすれば劣等感や自信のなさから解放されることができるのか?について書いていく。
劣等していることと、劣等感は違う
そもそも、人と自分を比べてしまうのは仕方のない部分がある。
人は自分という存在だけでは自分のことがよくわからず、相対性の中で自分がどんな存在なのかということを知っていく。
例えば、身長には高い低いがある。
身長が高い人もいれば低い人もいて、もしそこに単純な優劣をつけるのであれば、高い人は優秀で低い人は劣等だということになるだろう。
その他、様々な部分で優劣をつけることは可能だ。
そして、その優劣から自分を判断して落ち込むことだって選択肢としては可能。
しかし、劣等していることと劣等感を感じることは別物だ。
劣等しているからといって劣等感を感じることにそのままつながるわけではない。
どういうことか。
「あれのせいで手に入れらない」が劣等感の正体
他ならぬ私も、昔は器用で手際の良い人に憧れた。
それはそのまま不器用な自分に劣等感を持つ、ということでもあった。
そのときの私の感覚として強くあったのは、
「自分は損をしている」
という感覚だった。
自分は損をしていて、その損によって自分の望むものを手に入れることができないでいる、と思っていたのだ。
当時で言えば、大学合格。
自分は不器用で、その不器用さのせいで大学合格という結果を得られないのではないか、と思ったときに劣等感を持った。
別に大学合格などどうでもいい、と思っていれば、
事実として劣等していたとしても「劣等感」を感じることはなかっただろう。
そう考えれば、劣等感は結局のところ、
「それのせいで自分が手に入れたいものを手に入れることができない」
と思い込んでいることから生まれるのだとわかる。
例えば、才能があればもっと女の子にモテるのに、と思っている男子がいるとする。
その子は才能のなさに劣等感を感じるわけだが、
そこに劣等感を感じるようになったのは、女の子にモテたいという欲求があったからだ。
欲しい愛が得られない、欲しいものが得られない。
そして、それは「あれ」のせいだと思ったとき、「あれ」に劣等感を抱く。
そういう構造になっているのではないかと思う。
自分が不幸なことを「あれ」のせいにしないこと
ただ、私が劣等感を感じなくなった瞬間がある。
それは、不器用さを受け入れ切ったときだ。
自分の不器用さを受け入れ、今あるものを受け入れ、その中でやっていくということに対して腹をくくったときに、劣等感はなくなった。
それはつまり、「あれのせいで」と思わないようになったということでもある。
先ほども書いたが、劣等感は「あれのせいで欲しいものが手に入れられない」と感じたときに、強くなる。
ということは、
「あれのせいで」
「手に入れられない」
この二つの思い込みに気づくことで克服できる、とも言える。
あれのせいじゃないし、
手に入れられる。
こう考えられるようになれば劣等感は消えていく。
そして、そう考えられるようになるためには、
自分のことを受け入れることが必要だ。
そして、自分のことを受け入れたときにこそ、人は力を発揮することができて、魅力的になることができて、その結果、
欲しいと思っていたものを手に入れることができる。
そのとき、「ああ、あれのせいでもなかったし、手に入れることもできた」と心底理解する。
そうなればもう、劣等感で苦しむこともない。
自分が劣等感を感じている部分について「あれのせいで」と思えば思うほどに、劣等感は強くなっていくだろう。
無条件で自分を愛すること
さらに、
手に入れなくてもかまわない
と思えたときにも、劣等感は消えていく。
手に入れなくても自分に価値がないということにはならない
と思えたときにも、劣等感は消える。
それはつまり、無条件に自分を愛せたときだ。
無条件に自分を愛せたとき、
無条件に自分を受け入れたときにもまた劣等感は消える。
そして、先ほども書いたが、そういうときほど力を発揮できて、魅力的にもなって、
手に入れなくても良いと思ったものがなぜか手に入ってしまうのだ。
不思議で皮肉な話ではある。
では、それ以外にもまた違った角度から劣等感について考えてみよう。
環境が「自信」を奪うこともある
次は「環境」についてだ。
人は自分にとって価値があると思うものを持っている人のことを認め、そうでない人のことは認めない。
人は、自分にとって価値あるものを持つ人を認め評価する。
逆に自分にとって価値が低いもののことは認めず評価しない。
とすれば、人の評価に従って生きるということは、
その人の価値観の中で生きるということになる。
ビジネスマンと芸術家
例えば、ビジネスにやたら価値を感じている集団に「芸術家」が入り込んだらどうなるか。
「それ、金になるの?ビジネス展開しないの?意味なくない?こうしたら?」
と滅多打ちにされて、その人は最悪、芸術家であることを諦めてしまうかもしれない。
芸術家を目指した自分がバカで間違っていて、おかしかったのだと思ってしまうかもしれない。
そこでビジネスに転向しようとするのだけど、なかなか上手くいかない。
元々芸術を愛していたわけで、ビジネスをやりたかったわけではないし、そこに才能や武器があるわけではないケースも多いからだ。
逆もまた然りで、ビジネスにすごく興味のある人が芸術家ばかりいる集団の中に入ったとしよう。
すると今度は、
「あなた、お金が全てなんですか?世の中貧しい人もいるんですよ。利己主義ですね。もっと高尚なものが世の中にはあるのですよ。銭ゲバですね」
なんてイラっとすることを言われて、お金を欲しいと思っている自分は間違っているのかという勘違いをし始める。
でも、芸術家たちに説得されて、「そうか、もっと高尚なものを目指すぞ」と思って、芸術を学び始める。
しかし、上手くいかない。芸術の才能や芸術を突き詰めたいという気持ちもないからだ。
したいのは、ビジネス。
そこで芸術家たちは言う。
「あなた、ちょっとあれですね、才能というものが、ないですね。やめた方がいいのでは?」
そう言われたあなたは、「この超劣化ピカソもどきめが!」と心の中で強く思いながら、
その思いは表面には出さず、冷静にアゴのあたりにターゲットを絞って静かに殴りたくなるかもしれない。
これは極端な例だけど、
自分とは違う価値観の人たちの中だけにいると、
自信を失ってしまうことがある。
自分は間違っているのか?
と思いやすいからだ。
そうなると、自分の力を発揮することも難しくなっていく。
価値観というのは多種多様で、人が何に価値を感じるのか、何に情熱を注げるのかも人それぞれ全く違う。
もしビジネスマンがビジネスマンの集団にいたら、自信満々でいられる。
しかし、ビジネスマンが芸術家の集団にいたら、自信を喪失してしまうかもしれない。
自分は間違っているのではないか、という気持ちにいつも苛まれてしまいかねない。
自分に自信を失っている人は、
自分のフィールドに立たせてもらえなかった、ということも多い。
自分のフィールドに立たせてもらえなかったから、自分の才能を発揮できていない。
周りがその人の持っている才能を見抜くことなく、
ああだこうだと言いたい放題言って、その人の心の声を無視するように教育する。
そして、大声で「何が正しくて何が間違っている」と叫ぶ人の声を聞いて、(それはテレビでも本でも身近な存在でもいい)
その声を鵜呑みにして、自分をジャッジし始める。
自分の力を発揮できない道を歩み始める。
その道は辛く苦しい道だし、自信を持つことも難しいだろう。
結局、私たちにとって大事なことは「自分の道」を歩くこと。
自分の価値観を大事にして生きていくこと。
そう生きることで、自分に自信を持つこともできる。
長くなったので今日はこのへんで。
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