「飽きた」からといって「いらない」ことにはならない

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受験生を教えていた頃、よく言っていたことがある。それは、

「飽きてもやる」

といったようなこと。

例えば、英単語の場合で言えば、飽きていないということは覚えていないということだ。

世界史や日本史でもそうだ。

もう、それは当たり前すぎるんですけど。そこの時代、飽きたんですけど。

くらいになって初めて、記述式の問題を解けるレベルに至る。

そのレベルに至らなければ、とてもじゃないが数百文字の記述は書けない。

京大を世界史で受験した私は、勉強する過程でそのことに気づき、「飽きてもやる」ということを一つの基準としていた。

飽きたからといってやめようとは思わなかったし、飽きたかどうかを差し引いて、「本当に身についたのか」だけを見つめ続けていた。

形式ではなく実質の方が重要なのだ。

例えば、「嫌われる勇気」という本が大ヒットした。

ただ、それは少し前のことになっているし、多くの人がその本のことを知っているがゆえに、そろそろその言葉に飽きている人もいるかもしれない。

「嫌われる勇気って大事だよね」と力説しても、まあそうだよね、という反応が返ってくるかもしれない。

けれど、「まあ、そうだよね」と言った人が嫌われる勇気を持つことができているとは限らない。

というか、ほとんどの場合、持つことはできていない。

言葉だけ、知識だけは頭にあるが、そういう人ほど飽きて取り組まなくなる。

なぜか?

嫌われる勇気を持つことができていないがゆえに、その大切さが心に刻まれていないからだ。

心に刻まれていないがゆえに、飽きたらやめる、飽きたら取り組まなくなる。

言葉や知識レベルでしか分かっていない人ほど飽きるし、飽きたらすぐやめる。

そして、また他の目新しい何かに飛びつき、それも身に付かないから「飽きた」となって、また目新しいものに飛びつく。

そして、気づけばその生き方が人生そのものになっていたりする。

受験勉強でも、合格する人は「身についているかどうかが重要」という本質を見つめ続けることができる。

自分が感じている「飽きた」と感じる気持ちと距離を取れる、と言い換えてもいい。

飽きたことと、それがいらないことに関係性はない。

実際、人が良くなっていく本質があれこれコロコロ変わるとは思えない。

というか、変わるわけがない。

言葉や知識レベルで耳タコになるくらい聞いたことがあることでも、

結局はそれが身についているかどうか、そのことに自覚的になれる、気づき続けていられることが大事なのだ。

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