最近、ジムに行くときは4〜5キロくらい走るようになった。
今日も走ってきたぜ。
押忍!
ジムに行くのは週4〜5とかそれくらいで、筋トレもするから、昔に比べればかなり運動するようになっている。
執筆期間中なんて、本当に運動をすることもなくて、筋肉はどんどん衰えていっていたなあ。
ただ、今運動しているとはいえ、その運動の仕方が適切かどうかはよくわからない。
専門家からすると微妙なやり方をしている可能性が高い。
普通にやっているけど、「もっとこうした方がいいよ!」ということはたくさんあるはず。
食事に関してもそう。
勉強すれば、色々と修正が必要なことも多いだろうと思う。
ただ、もしも最初から適切なやり方を全部学んでからやろうと思っていたら、
全然続かなかったんじゃないかと思う。
昔からそうなのだけど、ゲームを買っても説明書をほとんど読まずにとりあえずゲームを始めて、分からなかったらその都度説明書を読んでいた。
それが良い悪いではなく、そっちの方が性分に合っていたんだろうと思う。
運動にしても同じで、とりあえず始めてみた結果、うまくいっている。
周りにとやかくやり方を言ってくる人がいなかったことも良かった。
今は本当にいろんな運動法がある。
学ぼうと思えばいくらでも学べる。
正直、うざいくらいの情報量だ。
いちいち精査するのも面倒くさいなと素直な感情として感じてしまう。
自分の場合、そういうことを調べているうちに、当初の「運動したい!」という思いが薄れてる。
そうやって最初のウブな気持ちを忘れてしまうのが嫌で、とりあえず自分の思いに従って始めてみた。
自分が楽しい!と思えるやり方や量を続けていった結果、今、ジムに対して極めて肯定的な思いを持っている。
もし仮に「正しいやり方」に最初から固執していたなら、
多分、ここまで肯定的な思いを持つことはできなかったんじゃないかと思う。
そして、面白いことに、「そろそろより良いやり方を知りたいなあ」と心から思い始めている。
『心→頭』という順番。
こうするべきだ、という頭の声を先に満たすのではなく、
こうしたら楽しそう、という心の声を優先していく。
そうすると、
頭が「こうするべき」と言っていたことを、心が「したい」と感じるようになってきている。
かなり面白い現象だけど、これは何に対しても当てはまるのではないかと思う。
今、物語をちょくちょくと書いていて(アップはしていないのだけど)、
心が楽しいと思う書き方をしていると書き進められる。
けれど、やり方にこだわった途端、一気に苦行になる。
だから今は、やり方や、こう書くべきというところからは離れ、
自分の感性の赴くままに書いていて、やり方にこだわりたいと心が言い始めたタイミングを見計らって、こだわり始めようと思う。
こうすると楽しい、こうするとワクワクする、こうしたいと感じている。
そういう自分の心の声を大事にして、後から色々と付け足していけばいいと思う。
「やってみたい」というウブな思いが薄れてしまうということが、一番良くないことなんじゃないかな。
コーヒーが美味い。
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