サッカーが好きで、今、クリスティアーノ・ロナウドの本を読んでいる。
世界No 1選手の称号であるバロンドールを何度も受賞している選手。
読んでいて思うところはたくさんあるのだけど、とにかく、これまでの人生の中でサッカーにかけている時間が圧倒的に長い。
自分も昔サッカーをやっていたけれど、そこまで時間はかけていない。というか、全然。
比べるなんておこがましくて恥ずかしいけど、元々の才能レベルで圧倒的差があるに加え、かけている時間も全く、圧倒的に、とんでもなく足りない、ということが本を読んでいてよく分かる。
肉体のこと、食事にもすごく高い意識を持っているのだけど、それらも全てサッカーにつながっているわけで、
誰よりも「サッカー」というものに時間を使ってきたんだな、ということが分かる。
超一流と言われる人は、誰でもそうなんだろう。
徹底的に「それ」に時間を使っている。
例えば他にも、小説家になる人は、たくさん小説を読んでいたりとか。
稀に小説を読んでないのに小説家になる人もいるみたいだけど、それは例外的存在で、基本的に小説を書く人は小説を大量に読んできた人だったりするもの。
小説を読みまくって感動して、「俺でも書けるんじゃない?」となって書き始める人が多い。
それも結局、小説ってものに時間を使ってきたってことなんだろうし、時間を使いまくれるくらいに好きだったっていうのが大きいのだと思う。
何をするにしてもそれがある程度物になるためには時間が必要になる。
時間をかけてそれに取り組むことなしには、何かが物になるってことはない。
だから続けることが大事だし、学ぶこと、深めていくことが大事。
基本的に、一朝一夕で成功!みたいなのが嫌いで。
そんなわけねえだろう、って思う。
受験のときだって、京大に合格するためにめちゃくちゃ勉強した。
一年間勉強のことしか考えてなかったし、それでも合格できるかギリギリ。
遊んでる暇なんてこれっぽっちもなかったし、実際遊ばなかった。
現実をよく見れば、合格するためにはそれが当然っていうか、天才でもない自分は地道に誰よりも勉強するしかなかったんだよね。
できなきゃ不合格になるっていう、ただそれだけの話だった。
結局合格できて、「ああ、時間かけりゃ案外何とかなるじゃないか」って思えたし、その学びっていうのは今に生きてる。
何かで上手くいかなくても「まあ、練習すればいいか」と思うし、そもそもそこまで能力も高くないわけだから「できなくても当たり前」っていうか、
人よりもマイナスのところからスタートしてもまあ当然だなと思うし、それが自分だから仕方ないなって感じる。
昔は、「くそ、損じゃねえか」ってよく思ったけど、そんなこと思っても意味なくて。
もう自分として生まれたんだから、自分にあるものでやっていくしかない。
「自分で生きていく」って覚悟しきって受け入れきったときに、逆にすごく楽になった。
「損じゃねえか」って思ってるときは苦しくて、「損でいいじゃねえか」って思えたときに楽になった。
自分は不器用だけど、もう、そんな自分に被害者意識を持つのはやめにした。意味ないから。
被害者意識を持ってるときは、誰かのせいにできるから楽な気がするんだけど、現実が全然よくならない。
その楽な気持ちって、結局は偽りのもの。
誰かのせいにして一時的に自分を慰めるんじゃなくて、自分を受け入れて、一歩一歩地道にやってくこと。
ダメな自分に出くわしても、「ま、しゃーねーな、これが俺だ」って感じで受け入れていく。
そうやって開き直っていったら性格も明るくなって、人が手を貸してくれたり、気にかけてくれたりして、いい感じになっていったんだよね。
開き直ると、明るくなって、その明るい状態が人生を切り開いてくれたりするもの。
責めるんじゃなくて、自分を受け入れて、能力は別に変わってないけど開き直って明るくなれたときから人生が良くなったような、そんな気がしてる。
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