今日は「自分を信じる」ということについて。
どうすれば、自分を信じることができるのか?自分を信じるための方法ってあるのか?
そのあたりについて書いていきたいと思います。
【自分を信じる】の2つの意味
まず、「自分を信じる」ってすごく抽象的で、何だかよく分からないって感じないかな?
分かるっちゃ分かるし、分かっている気もするんだけど、でもどこか曖昧な感じがする。
なので、まず「自分を信じる」をもう少し具体化してみよう。
自分を信じるには2つの意味合いがある。
自分は未来に願望実現することができる
自分は無条件に価値がある
この2つ。
例えば、前者で言うと、
よく「自分を信じられない人はチャレンジができない」と言われたりするよね。
なぜチャレンジができないかというと、未来に願望が実現すると思えないからなんだ。
基本的にチャレンジというのは、その結果が未来に出る。
まだない未来をイメージして、想像して、あくまでも頭の中のイメージを根拠にして動き出すわけだよね。
ただ、そのイメージが実現すると思えないなら、心の拠り所がないことになる。
現実や現状というのはまだ願望実現していないわけだから、現実や現状は根拠にできない。
現実がこうこうこうだから、願望実現できます!とはならないわけだよね。
というかむしろ、現実を見れば見るほど、できない気がしてくるという悪材料になってしまうことが多い。笑
心の拠り所がなければ、人は動くことはできないし、続けることもできない。
頭の中で「できる」と思い、イメージを抱けないなら、人は動けないんだ。
願望実現できると思える力
これがつまり、「自分を信じられない」ということの一つの具体的な事例。
未来に願望実現できると思えない。
自分の中の未来のイメージを拠り所にすることができず、現実を見て落ち込み、やりたいことをやるエネルギーが湧いてこない状態。
例えば、
アメリカに行けば100%あの好きな人と付き合うことができます!
ということになったら、アメリカにワクワクして行くよね。
変な例だけど、もし航空券を取ることがめんどくさいと感じたとしても、
結果が確定しているならそれをやるエネルギーも出てくると思う。
まだ好きな人と現状は付き合っていないけれど、
未来付き合うことができるという確信があればそれはエネルギーを生み出す燃料になる。
でも、もしも「いや、付き合える可能性は70、60、、、、10パーセントです!」と言われたら、
だんだんと数字が下がるごとにエネルギーは下がっていく。
未来の結果に対する確信が弱まれば弱まるほど、やる気もエネルギーも下がっていくんだね。
もし「付き合う可能性は……0パーセントです!ボンバー!」と言われたら、
「いや、それやったら誰がアメリカなんて行くか!」となる。笑
行く意味ない。
結果のことだけ考えるなら行く意味0。笑。(アメリカが好きとかそういうのは今回は別の話)
これがつまり、エネルギーがない、ということなんだね。
未来に対しての確信がゼロ、つまり、できると全く思えない、
未来を想像通りにできると信じられないとき、人は行動するエネルギーもなくなってしまう。
自分を信じられないことの苦しさはここから生まれる。
自分がしたいことがあった。
実現したいと願うものが見つかった。
だけど、自分を信じられない、未来そうなると信じられないなら、人はエネルギーを持てない。
希望を持てない。結果、行動ができない。
ここに一つの悲しさがあるわけなんだ。
その状態というのは、なかなかつらいものがある。
自信を失い、勇気を失い、やりたいことや、実現したいものが頭にうっすらとありながらも、
そこに向かって動き出せない状態というのは、なかなかにつらい。
本人が一人でそんな思いを抱え込んでいるケースも多くて、誰にも相談できなかったりする。
自分の悩みや苦しみの原因もイマイチよく分からないことも多い。
ただ、一つの理由は、未来こうなると思える力、自信と勇気の低下によって行動するエネルギーが得られないでいること。
誰にも分かってもらえなかったとしても、その苦しみはイケジュンはよく分かる。
もちろんあくまでも自分の感覚を通してということにはなるけれど、自信と勇気を失い行動するエネルギーが湧かないのは苦しいことだ。
やればいいのは分かってる、動けばいいのは分かってる、だけど、どうしても一歩が出ない。
エネルギーが湧かない。
どこにエネルギーの根源を置けばいいのか分からない。
分からないから考えるのだけど、答えは一向に出ず、気づかぬうちに月日は流れる。
焦りと不安を感じ、気持ちは落ち込む。
イケジュンはそういう人を馬鹿にはしない。
気持ちが痛いほどに分かるから。
人は生きていれば、様々なうまくいかないことや挫折を経験する。
様々な経験の中で自信や勇気を失ってしまうことは、普通にあり得る。
それは責めるべきことではなく、誰にでも起こり得ることだ。
ただ、忘れないでほしいのは、僕ら人間には素晴らしい力、潜在的な力があるということ。
たくさん勉強し、たくさんの人を見て分かったことだけど、現状がどうあれ、人は自分で現実を創造できるパワフルな存在なんだ。
ときに、そのことを忘れてしまうくらい現実は厳しいと感じることもあるかもしれない。
それでも、今はまだそう思えなくても、自分にも未来を作ることはできるのかもしれないと、その可能性に目を向けてみること。
その力を伸ばすことが、「自分を信じる力」になる。
自分に無条件に価値を感じる力
次に、自分に無条件に価値を感じる、の方について考えていこう。
自分に無条件に価値を感じられないと、どうなるか。
人の目を気にすることになる。
なぜかというと、他人の評価がないと自分を支えることができず、
誰かに認められることが自分の価値の根拠になっているから。
例えば、ここに自分が純粋に好きだと感じるものがあるとするよね。
でも、それがあまりカッコイイものではなく、人から評価されるものでもなく、
むしろ「ダッセー( ´∀`)まじ?」と言われるものだとする。
「え、そんなことしてんの?」
「まだそんなことしてんの?」
と他人に言われるものだとする。
一方で、大して好きではないけれど、それをやっているとみんなから評価されるものがあるとする。
「いいね!」と他人から言われるようなこと。
今回の例はあえて極端にしているけど、
大好きだけど他人から評価されない
大して好きではないけど他人から評価される
ものがあったときに、自分に無条件に価値を感じられない場合、
後者の「大して好きではないけど他人から評価される」ものを選んでしまう。
なぜなら、自分の価値を決めるのは他人の評価だからだ。
こうなってくると、「自分のやりたいことが分からない」とか「情熱が湧かない」とか、そういうことが起こり得る。
自分の「大好き」を大事にできる場合は、そもそもそれをやっているだけで、そこに触れているだけで幸せだ。
「それをやっているだけ、そこに触れているだけで幸せ」という感覚が、無条件に価値を感じられないときには分からない。
「いや、みんなから認められないなら、それやって意味ある?」と平然と言えてしまう。
かなりの平然さで言える。
意味があるかどうか、役に立つかどうか。
その領域をどうしても超えられない。
一方、そんな領域を超えて、ただ好きなのだと思える。ただ楽しいのだと思える。
そういうものを大事にできる。
それが無条件に自分に価値を感じている人の特徴だ。
その姿勢は人間関係にも現れる。
無条件に自分に価値を感じていない場合、さっきも書いた通り、
「人にどう思われるか?」が最重要だから、自分のステータスを上げる人に強い関心を示す。
好きな人より、役に立つ人。
自分をすごそうに見せてくれる人。
そういう人を重視するようになる。
逆に言えば、そうでない人を馬鹿にし、一緒にいたくないと感じる。
なぜなら、一緒にいたら「自分の価値が下がる」からだ。
家族のような関係の人よりも、自分を凄そうに見せる人を重視するようになる。
好きな人より、役に立つ人を重視する。
結果、よくあるのは家庭がうまくいかない、家族仲が悪い。
見栄えは良いけど実は内側の関係性を犠牲にしている、
内側の人が苦しんでいる、本人も幸せや穏やかさ楽しさを感じられない、という構図だ。
例えば、学校で言えば、目立つわけでもない、その子と一緒にいても別に価値が上がるとかそういうわけではない子に、
「こいつ、いい奴なんだよ」
「俺はあいつのこと、好きだぜ」
「一緒に帰ろうぜ」
と言えるような状態。
目立つ、力がある、役に立つ、自分に利益がある。
そういった次元を超えて、
その人を純粋に見て、上下で見ることなく、その人の良さが見える、その人のことを好きだと思える、大切な存在だと思える。
そういう心の状態が、無条件に価値を信じられている状態だ。
自分を信じることを学んだ、小学校の頃の体験
小学校の頃、いじめられたことがある。
その時期は、誰からも話してもらえなかった。
仲が良かった子もみんな自分から離れていった。
自分はいじめのターゲットであり、一緒にいても不利益しかないから。
別にその子たちに何かしたわけでもない。
ついこの間まで仲良く楽しく遊んでいた。
そんな子たちがなぜか分からない間によそよそしくなり、気づけば、誰も話してくれなくなった。
何が起こったのか全く分からなかった。
お昼休憩にやっていたキックベースにも入れてもらえなくなり、
お昼休憩に何をしていいか、どこにいればいいのか、分からなくなった。
毎日、お昼休憩の時間になるのが怖かった。
そんな中、一人だけ、自分と普通に接してくれる子がいた。
その子は集団に属しているのではなく、どこか孤高の存在というか、面白い部分もあったからその孤高さが周囲から認められているような子で、
お昼休憩に、一緒に普通に過ごしてくれた。
それがすごく嬉しかったことを覚えてる。
結局その子とは、なぜか、小学校、中学校、高校、大学の学部まで全部一緒だった。
中学では狭い家にノコノコやってきて一緒に劇の台本を作り、文化祭で吉本新喜劇のような劇を披露した。大盛況だった。
3年生の夏、サッカー部なのになぜか音楽部に誘われたとき、「やるっしょ?」と誘って、一緒にコンクールに出場した。
高校の修学旅行で修学旅行委員長になったとき、そんなものはないのに「お前、副委員長な」と勝手に指名した。
その子はまたまた家にノコノコやってきて、劇の台本を一緒に作って、修学旅行で披露した。
自分は、その子の無条件に自分を認めてくれた姿勢に救われたし、
自分も、孤高の存在で在れる強さがあれば救える人がいるのかもしれないと思った。
無条件に愛し、愛されること
かなり話が逸れたね。
戻そう。
無条件に認めている状態とは恋愛で言えば、
例えば、まだまだ結果も出ていない時期から恋人で居続けたプロ選手の奥さん。
プロ選手だから好きなのではなく、好きだと感じた人がプロの選手をやっている、という感覚でいられる人。
その人が活躍しているから好きなのではなく、その人が好きだから好きなのだと、ただ一緒にいたいのだと思える人。
そういう人がそばにいれば、無条件に自分を認めてくれる人がいれば、人は安心感や愛の中で力を発揮できる。
苦しい時期、人はその人から離れたくなるもの。
なぜなら「役に立たない」からだ。
むしろ、邪魔だ。
人生を邪魔する存在として、波動を下げる存在として、ステージの違う存在として扱われる。
役に立たない、用無し、邪魔者。
そうやって扱われることは、扱われたことのある者にしか分からない苦しみがある。
人が自分をどう思っているかなど、言わずとも感じるものだ。
感じていない、分かっていない、そんなフリをするけれど、
本当のところは誰よりも感じているからこそ、誰よりも分かっているからこそ、つらい。
そこを本当に乗り越えるために必要なことは、
「役に立つ」ことではなく、「役に立たないまま愛し、愛される」ことだ。
役に立つことで乗り越えるのではなく、
役に立たないまま愛し愛されることで乗り越える。
無条件に自分を認めるとは、役に立たない、利益も与えられない、そんな自分だったとしても、
自分であるという、ただそれだけのことで価値があるのだと思える状態のこと。
その力を身につけることが「自分を信じる」ということなんだ。
自分を信じるには、2つの力を伸ばせばいい
一番最初に書いたことに戻ろう。
自分を信じるとは、
・自分は未来に願望実現することができる
・自分は無条件に価値がある
この2つの心の状態を手に入れること。
両方ともすごく大事なことで、どちらが、ということはない。
どちらも伸ばしていくことが大切。
ちょっと長くなったので一旦ここでストップするのだけど、
2つの心の状態を手に入れることができれば、僕らはもっともっと人生を楽しむことできます。
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