「どうすれば、ユーモアのある人間になれるのでしょうか?」
という質問が来た。
ユーモア、ねえ。
この質問に答えるために、
まず、自分にはユーモアがあるのかどうか?考えてみた。
あるときは、ある。
センスがあるかどうかは、わからないが。
そのへんは、自己評価だけでユーモアのセンスがあるかどうかの判断をするのは微妙に危険で、他者からの評価が必要なのかもしれない。
ただ、このブログを書いているときも、たまにだけど、ギャグのようなことを書くこともある。
でも、真剣な内容になることもある。
で、考えた。
そのときの自分の違いは何なのか、と。
なぜ、違いが出るのか。
おそらく、そのときの意識の状態、心の軽さ、そういったものに左右されているように思う。
真剣な内容を書いているときはその「モード」に入っているからそうなるのであって、
そもそもユーモアを全く持つことができない人間である、ということではない。
あくまでも、「モードの違い」でしかない。
ということは、この相談者も、本当はユーモアを持っているんじゃないか。
でも、モードがいつも深刻だったり真面目になっているだけ。
そして、なぜそうなるのかと言えば、いくつか理由がある。
まず、そうでなければならないという思い込みが強いからだろう。
例えば、真面目な人間の方が偉いとか、ふざける奴はどうしようもない奴だという思い込みだ。
実は、ふざける人というのは案外意図的にやっていたりして、頭の回転が早い人が多い。
なんとか楽しい雰囲気を作ろうと、ピエロ役を買って出ている。
わざとそうしている、という人が多いのだ。
ただ、真面目な人というのは案外そのピエロ役の人の意図を読み取れないというか、何やってんだあいつは、と思ってしまって、
ピエロを非難し始めることがある。
そして、それによって自分がピエロになることを許可できず、結果的にいつも真面目になってしまうのだ。
ある意味、ピエロを敵視している状態。
大事なのは、ピエロの存在を認めること。
ピエロの意図を理解すること。
場を「軽くする」「楽しくする」意義を理解することだ。
ピエロ役の人はたまにやりすぎるので、そのあたりのセーブは必要になるかもしれないが。
ただ、そこに「正義」を感じている人もいる、ということは知っておくべきだ。
そうやって、ふざける人、ユーモアのある人のことを認めていけばいくほど、自分がユーモアのあることを言うことにも躊躇がなくなってくる。
そして、もう一つは、
自分が力を抜けるか。脱力できるか。リラックスできるかだ。
誰かといるときに自分にフォーカスが当たりすぎ、どう思われるかを気にしてばかりいると、
緊張してユーモアのあることは言えないだろう。
自分には価値がそもそもあるのだ、ということを知ることで、リラックスすることも可能になる。
初対面の人たちの前より、仲の良い友人たち相手の方が、面白いことは言えるはず。
それは、リラックスできているかどうかの違い。
どこにいてもリラックスした状態でいられる自分であれば、面白いことも言えるし、余裕が生まれ、他人からみても魅力的な人間に映るようになっていくものだ。
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