自分を責めるのは、「完璧な人間だと思ってもらいたい」からだ

スクリーンショット 2016-03-07 14.37.47

 

自分を責めるときというのは、

自分の完璧なイメージが崩れてしまった

と感じるときだったりする。

例えば、人前でミスをした。

もしも、自分を完璧な存在として見てほしい、そういう存在だと感じていてほしい、と思っている場合、

そういう存在でなければ自分は認められない、という場合、

クヨクヨと気にし始める。

夜も眠れないほど、「なぜ、あのときあんなことを」などと考え始める。

完璧なイメージを保つために、人のせいにしてみたり、次なる策を練ってみたり、ややこしいことになる。

逆に、まあ自分も別に普通の人間だしな、と思っていれば、それほど気にならない。

被害妄想でも誇大妄想でもなく、

あるがままの現実を受け入れることができる。

女の子にフラれたら、まあそんなもんだろう、と思う人と、

必要以上に傷つく人がいるのも、似たようなものだ。

必要以上に傷ついている人は、「モテる俺という完璧なイメージ」が崩れたことに傷ついているにすぎない。

そのあり方は、私がよく言う「自分には価値がある」というのとは真逆のあり方。

自分には価値があると知っているからこそ、誇大妄想も被害妄想もしないでいられる。

自分には価値がないと思っているからこそ、自分は特別な存在だと思いたいし、他人から完璧な存在だと思ってもらいたくなる。

例えば、こうやってブログを書いたり、本を書いたりしていると、心のどこかで

完璧な人間でなければならないのでは?

と感じてしまうことがあるものだ。

でも、そんなことは所詮不可能。

そもそも自分は完璧な人間だという認識を持ってもらおうとすること自体が、

不毛なことなのだ。

だって、実際の自分自身が、完璧な人間ではないのだから。

自分を責めることが減ったのは、

他人に完璧な男だと思ってもらわなくてもいい、と思えたからだ。

完璧イメージを持ってもらわなくていい、と思えたからだ。

たまにそんな自分が顔を出すこともあるが、そんな自分が顔を出したことに気づけるようにはなっている。

それだけで全然違う。

自分を責めているとき、よーく考えてみると、

他人に完璧な自分イメージ、理想の自分イメージを持ってほしいと感じている自分に気づくはず。

他人にどう見えるか、を気にしすぎている自分がそこにいるはず。

そんな自分に気づけたら、一歩前に進んだ証拠。

完璧だと思ってもらうことなどどうでもいいから、

さっさとやりたいようにやったらいい。

 

さて、イケジムで配信する音声を収録せねば。

 

無料メルマガも配信しています。より深く濃い情報を得たい方はこちらからご登録ください。

作家・コーチ 池田潤オフィシャルメルマガ登録はこちらから。

スクリーンショット 2016-03-07 14.37.47

 

オンライン人生相談バー『いけじゅんBAR』も好評です。

:いけじゅんBAR第2回「なぜ、大きな目標はあるのに行動できないのか?」

 

大好評コンテンツ「人生で大切なこと」をストーリー形式で面白く読める「学べる物語」記事はこちらから全て読めます。