受験生時代猛烈に勉強できたのも、7年間に渡って日々発信を続けて来れたのも、全ては「自分は大した存在ではない」ということを受け入れたからでした。
京大を目指したとき、過去問を解いても全く歯が立たず、その実力差に愕然としました。
でも、現役時代はその愕然とした差を受け入れ切ることができなかった。
それを受け入れることは、自分がダメな人間であることを認めることになると思ったから。
そして当時はまだ、ダメな人間であると受け入れることこそがダメな人間ではない証なのだと、気づいていなかったから。
受け入れ切ることができないその心の在り方が、勉強に対する熱意を中途半端に。
必死になってやることが、ダメな人間である証のような気がしていました。
ダメな人間になるのが嫌で、必死になることがその証のような気がして、必死になることから逃げた。
安っぽいプライドを守ろうとして、その結果、自分自身の首を締めることに。
現実を直視せず「できてるできてる」を口癖に、カッコ良くスマートにやりたくて、自分をごまかし続ける日々を送ることになって、
結果、不合格。
厳然たる「不合格」という現実を目の前に、「自分は全くできていなかった。ダメだった」という事実を受け入れざるを得なくなりました。
だけど、それこそが転機となって、自分自身の至らなさ、要領の悪さ、分かってなさと向き合い始め、そこからは成績も上がっていって。
自分は大した人間ではないと自覚することが、大した人間になるための入り口。
何者かであろうとする人ほど何者にもなれず、何者でもないと気づいた人が、何者かになっていく。
そういうことなのではないか、と思い始めました。
今、若い人と接することも多いですが、若いときはとにかく実力も経験も足りないもの。
だからこそ、必死こいて何かに取り組んでいくことも必要だったりする。
だけど、必死になることが、本気で何かを追い求めることが「ダサイ」ものになったなら。
それが、自分がダメな人間であることの証であるという思い込みに囚われてしまったら。
ちっぽけな自分のプライドを守るために、失敗すらできなくなったなら。
がむしゃらさが売りでもある若者は、何にも本気になることなく、結果、何も身に付くものもなく、だけどプライドだけは高い、「めんどくさい人」になってしまうかもしれません。
カッコ悪くてもいい、ダサくてもいい、要領が悪くてもいい、人よりできなくてもいい。
それを認め、自分の弱さを認め、そこから一歩を踏み出していく。
それこそがカッコイイんじゃないかと思うし、そうやって時には泥水を舐めながらでも必死になってやっていくという時期があってもいいんじゃないかと、個人的には思います。
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