「自信」って、
今まだ現実にないものを「勝手に」できると、そうなると信じること。
今日は、そんな話を。
します!
信じることと、人間関係
例えば、人と仲良くなるという人間関係についても、
自信がある人は「勝手に」仲良くなれるだろうと思っているもので、そのまず自分から勝手に仲良くなれると思っているその状態が、オープンな雰囲気、良い雰囲気を作っていく。
人と打ち解けないなあという場合というのは基本的に、
人と仲良くなれるだろうと「自分から」「勝手に」信じることができない
ことが多い。
自分から勝手に信じることができないでいると、どうなるか。
まあ、固くなるし、ぎこちなくなるわけだよね。
で、そうなると人と楽しく話すこともできなくなるから、実際に仲良くなることはできない。
つまり、思考は現実化しているわけで、いや、思考が現実化しているというよりも「信じていることが現実化している」ということか。
やけにフランクな人、すぐに人と心の距離を縮めてしまう人っているものだけど、そういう人って前提が、
「普通に、仲良くなれるっしょ」
という感じになっている。昔のイケジュンでは到底到達し得なかった領域。笑
だからこそ、オープンな状態で人と接することができる。
逆に、昔のイケジュンのように自分という存在に対する自己認識、観念、信念が、
「自分は受け入れてもらえないだろう…」
というものである場合、最初から雰囲気が固いものになっちゃうんだよね。
まじかてえってなる感じ。
で、自分が固いから相手も固くなって、心の距離が縮まらない。
受け入れてもらえないと信じれば信じるほど、自分を表現することもオープンにすることもできないから、本音で付き合ってる感もなくなっていくしね。
どれだけコミュニケーションの勉強をしたところで、その自分の前提が変わっていないとうまくいかないし、
一時的にうまくいったとしても、何かの小さなきっかけで「受け入れてもらえない」という前提が刺激されて、
そっち方向の思考が始まり、膨れ上がり、「やっぱり受け入れてもらえていない」という現実を体験することになる。
まあ実際には目の前の人に受け入れてもらうことすら必要ではなくて、
自分は受け入れてもらえる存在だと信じているだけでいい。
信念と証拠の関係性
たとえ目の前の人が受け入れてくれなくても、受け入れてもらえる存在だと信じることはできるんだよね。
ここ、大事。
目の前の現実に関係なくそう思えているということが本当に信じているということであって、目の前の現実に左右されて「やっぱり違うじゃないか」となること自体が、信じられていない証拠でもある。
冒頭に書いた通り、自信というのは、
今まだ現実にないものを「勝手に」できると、そうなると信じること
なわけで、本当には信じていないからこそ、目の前に証拠を並べてほしくなる。証拠がないと安心できなくなる。
自分を信じられない人ほど束縛がキツイのはそういうこと。笑 証拠が常に必要なほど信じる力が弱いということなんだ。
信じていれば証拠はいらなくて、証拠はいらないその状態で動くことで初めて、後から証拠が集まってくるわけ。
京大法学部を目指したとき、合格できる証拠なんてこれっぽちもなかった。
でも、勝手にできると信じた。
信じたからこそ、勉強に打ち込むことができた。
短期的には証拠は集まってこなかったけど、それでも信じていたからそんなことは関係なく勉強することができて、だんだんと証拠が集まってきた。
合格できる証拠が「後から」揃ってきた。
その体験が、自分にとってはすごく大きいものだったんだ。
本を出版するときも、そう。
自分で仕事を始めたときも、そう。
肉体だって、そう。
ああ、そういうことか。勝手に、先に、とりあえず信じてやってみればいいんだ、と気づいた。
状態が先、状況が後だとよく言うけれど、それは、
信念が先、証拠は後、だと言い換えることもできる。
信じられないということは想像ができないということで、
想像ができないということは、創造ができないということ。
今目の前にあるものは誰かの「想像」から生まれているわけで、想像力を失う、つまり目の前にまだないものを信じる力を失うということは、創造力を失うということでもあるんだよね。
大事なのは、勝手に諦めずに、自分から先に勝手に「こうなる」と信じてみること。
信じているとすればどうするか?を考えて、そちらの方向にほんの少しでいいから踏み出してみることなんじゃないかと思う。
より深い内容は、メルマガにて書いてます。
本も出版しています。
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