<この物語はフィクションです>
「人は、本当に今の自分が取り組む必要があるものほど、目を逸らしたくなるもんだ」
「……」
相談に来た男は、自分でビジネスを始めたいと言った。
しかし、今何をしているのか聞けば、特別言えることは何もない。
何をしようか考え、学びもするが、何かを始めることはない日々を2年は過ごしているという。
楽な日々ではある。だが、そこに退屈を感じ始めて、もう長い。
何かをしたいという気持ちはあるが、今まで動かしていなかった体をいきなり動かすようなもので、どうしても体も心もついてこないのだった。
「何かをするというのも、筋肉のようなものなんでしょうか。使わなければ、衰える」
「かもな」
男に、力がないとは思わない。ただ、したいと思いつつも何もできないでいた2年の日々が、男の体力や気力を徐々に奪っていった。
どうせ自分には何もできないのではないかという思いが、この男を縛っている。
自分でも気づかないくらいゆっくりと、男は今の生活に溶け込んでいき、そこから動き出すことができなくなっているのだった。
「お前はこの2年で、大切なことを忘れてしまった」
「大切なことですか」
「ああ。何だか分かるか」
「……。分かりません」
「何かをすることの、喜びさ。
今のお前にとって大事なのは、何かをするということが喜びなのだということを思い出すことだ。
何かをするということは、大変なことばかりではない 」
「確かに、何かをするということを大変なことだと感じている自分がいるかもしれません」
「何かのために頑張るというのは、今のお前にとっては、老人に200メートルダッシュをさせるようなものだな。
そんなもんしなくていいから、 楽しくジョギングしな。
200メートルをダッシュしたじいさんは、たとえそれができたとしてもその場にへたりこみ、もう走りたくないと思うだろう。
すぐ燃え尽きちまう。
進んだ距離はたった200メートル。
だが、楽しくジョギングさせれば、1キロでも10キロでも走るもんだ。
そしたら、たまにはダッシュの一つもしたくなる。
そのときするダッシュは、清々しいものだろう 」
「俺は、じいさんですか」
「そうさ。ヨボヨボのな」
「なんか、嫌ですね」
「それを嫌だと感じて認めないことで生まれたのがお前の2年間だと、早く気づけ」
「……」
「その2年間がダメなものだったとは言わない。何もしないことがダメだということでもない。
だが、違う日々を過ごしてみたいと思っているんだろう」
「はい」
「なら、今の自分を知り、今の自分にできることから始めることだ。
できないもんは、できないでいい。それも素直に認めろ。
今の自分を認めず、最初から理想の完成像が出来上がるはずだという思いが、お前を、お前の人生を、縛り続けてるんだよ」
「言いますね」
「ああ。クソみたいなプライドに振り回されて、自分の人生を台無しにするな」
男は、暗く、鋭い目をして下を向いていた。
今は、悪者になるときだろう。
荒療治かもしれないが、そういうことも時には必要なことだと思っていた。
人は自分一人では、本当に向き合うべきものと向き合えないものだ。
それは、自分も同じだった。
人のことはよく見えるが、自分のことはなかなか見えない。
それが人間というものなのだろうと思う。
ふと気になってマスターの方を見た。
マスターは、いつもと変わらない落ち着いた表情で酒を作り続けていた。
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