恐れから愛想を良くしているときって、疲れるもの。
自分も過去にすごく疲れやすいときがあったのだけど、
どっちかっていうとそのときは、心の方から疲れてた。
色々気にしすぎてしまって。
例えば、誰かから誘われて断るのも難しいって感じてたんだ。
なんかガッカリさせることが悪くて。
ガッカリさせるくらいだったら自分が頑張ろう!みたいな。
それもある程度は続くし、もちろんそういうことがあってもいい。
チームで動くときなんかはそういうことが必要なときもあるよね。
でも、そうじゃない選択をできる自分でいることも大事なんだ。
これがいつも言っていること。
つまり、自分を優先したいときは優先できること。
それができるようになると、心が疲れきる前に休める。
そうすると、結果的に続けられたり、精神状態が良い状態でいられるから、
周りといさかいを起こしたりだとか、イライラしたりだとか、そういうことがなくなる。
自分がそうしたいからしている、じゃなくて、周りのためにやってやってる、という感覚になると、
だんだん周りの人にイライラするようになるもの。
誰かのために何かをするのも、自分の選択。
もしもそのときに相手から何かを求めているなら、相手の反応次第ではイライラすることが増えるだろうし、
「感謝してよ」「お礼言ってよ」という気持ちになるかもしれない。
それってあまりカッコよくないよね。
というか、自分自身の気分が良くないと思う。
相手に求めすぎると、相手は基本的にコントロールできないから、イライラすることや不足感や欠乏感を感じることも増えるんだ。
無愛想でいるってことは、相手から求めないということでもある。
好かれようとしてないわけで、
それは必要以上に求めていない、期待していない、ってこと。
で、その状態になってから、相手に愛を送ればいい。
その状態で愛を送れば、求めていないから純粋なものとなって、自分の気分が良くなるし、そのときには恐れもあまり感じないはず。
恐れるのは求めているからだし、イライラするのも求めているからだったりする。
ということで、無愛想になろう。
無愛想になれる自分でいよう。
心が疲れちゃう前に。
より深い内容は、メルマガにて書いてます。
オンライン人生相談BAR「いけじゅんBAR」もやってます。
いけじゅんBAR第2回「なぜ、大きな目標はあるのに行動できないのか?」
4冊目となる著書はこちら。