優しすぎる人ほど悩みやすい、ということはよくある。
それはなぜかというと、「自分さえ我慢していればいい」という発想にどうしても行きやすいから。
優しいという表現の仕方も紙一重な部分があって、優しさと恐れからの自己犠牲っていうのはかなり近い存在。
恐れからの自己犠牲、つまり「自分さえ我慢していればいいんだ」というところに行きやすくなると、自分の気持ちを大事にしたときに葛藤が生じる。
「あそこは、自分が我慢すべきだったんじゃないか?」
という葛藤。
優しすぎる人、言い方を変えれば、自分の気持ちを優先することが苦手な人は、そういう葛藤をいつも抱えていたりする。
ご飯を食べに行くときだって、自分が食べたいものを言えない。
「相手は食べたくないんじゃないか?」ということを先に考えすぎて、自分が食べたいものじゃなくて相手の食べたいもののことを考えすぎる。
「無愛想のススメ」という本は、そういう人に向けに書いている。
自分の気持ちよりも周りを優先することが癖になっていて、自分が我慢すればいいんだと思って言いたいことがなかなか言えないような人。
ただ、自分さえ我慢すればいいというところから本当の平和は生まれない。
だって、他ならぬ自分を「犠牲」にしているわけだから。
短期的には耐えられるけど、いつか爆発する。
いつか、耐えられなくなる。
そうなったとき、結局は我慢を生じさせていた対象を深く傷つけよう、傷つけてやれ、傷つけることは正しいことだ(だってあれだけ自分は我慢「させられて」いたんだから)、ということになるんだ。
そこに正当性を強く感じる。
だって自分は我慢「させられて」きたんだから。
でも、もし最初から自分の気持ちを言えていたら。
自分の気持ちを大事にすることが最初からできていたら。
どうなっていたんだろう。
最近観た映画で、悪者が主人公にある提案をしていた場面があった。
悪者はかなり怖くて、力強い。
ノーを言いにくい雰囲気がすごい。
でもそこで、主人公は何の躊躇もなく「断る」と言った。
断られても悪者は「そこをなんとか」と来るんだけど、断固として主人公は断った。
そこでもし悪者に悪いからと、自分さえ我慢していればということで「わかった」と了承していたとしたら、
結局は後々お互いの中で争いが生まれるはずなんだよね。
だから、お互いが自分を愛すること、自分を大事にできること、言いたいことを最初から言えること。
そういう「状態」、そういう「在り方」でいることが大事なんだ。
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いけじゅんBAR「なぜ、大きな目標はあるのに行動できないのか?」
本も出版しています。
「無愛想のススメ〜人間関係が劇的に改善する唯一の方法〜(光文社)」 2016年12月発売。発売4日で増刷!
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