人は自分の本当の願いに向かってでないと動けないな、とつくづく思います。
例えば、自分の場合だと、会社を大きくするとか、上場!とか、革命的なビジネスを!みたいなのって、全然心に響かない。
スティーブジョブスがどうとか、イーロンマスクがどうとか興味がない。
やりたいと思えない。
それが悪いということじゃなくて、「自分は」そういうものには興味がないということ。
で、例えば、そういうことを言うと、そういうものを目指している人からすれば「ちっちゃい」だとか「野心が足りない」とか「もっと頑張れ」というようなことになるのだろうけれど、
人それぞれ「欲求」というものは違っていて、それは違っていていいし、違っていて当たり前。
もっと「多様性」認めろや、と思う。
誰もが同じもん目指せるわけないやろが、と。(なぜか関西弁)笑
自分の生き方に迷うのは、「欲求」をコントロールされてしまっているからに他ならない、と思ってます。
欲求のコントロールって恐ろしいんですよね。
というのも、欲求をコントロールをされている人には常に「自己否定」が伴うから。
だって、「自分が欲求していると思っているもの」「欲求しなければならないと思っているもの」があるわけですが、そこに本気にはなれないんです。
それは内発的に湧いてくる本物の欲求じゃないから。
だから、いつも頭で「やらなきゃ」となるのだけど、体はついてこない。
体がついてこないのは、本当は別にそれをそこまで欲しているからではないからで、
逆に、体がついてくる人は、本当にそれを欲している。
この「欲している度合い」に大きな差があるわけです。
で、これは「自分の武器を見つける技術」に書いたのですが、
大体、うまくいっている人って、そのうまくいっているものにそもそも人一倍興味があったり、そこに欲求の対象があったり、それが得意な分野だったりするわけです。
お金を稼げるのはお金が大好きな人だし、
ビジネスがうまくいっている人はビジネスが大好きな人です。
そういうのを考えたり、仕組みを作ったりということに根本的に興味関心があるわけですね。
私はあんまりそういうのに興味がないので、正直なところ、苦手です。
私が興味があるのは「人間」であり「どうすれば人はよくなれるのか」であり「悩みのメカニズム」であり、人の「あり方」であり、
問題の「本質」であり、それらを全て「言語化」することです。
私にとっての「行動」とは、そういったものについて思索し、本質を捉え、それを誰にでもわかる言葉で言語化することなのです。
でも、それって超地味。笑
だから、昔は結構、そんな自分でいいのだろうかと思っていました。
その点についても、大いに考えました。
自分を否定して、自分以外の誰かを目指そうとしていたわけですね。
マークザッカーバーグのようにならねば!みたいな。
アホか、と。笑
今思えばね。
結局のところ、自分の本質というのは変わらない。
というか、私と「同じような毎日を過ごせ!」と言われて過ごせる人って、逆にめったいにいないと思います。
2〜3日もすればギブアップする人がほとんどかと。
ザッカーバーグも多分無理。
面倒くさくなるはず。
徹底的に一つのことを考えるし、その本質が見えるまではやめませんから。
「人間」という分野についてね。
しかも、自分が納得するだけではダメで、それを誰にでもわかるように言語化するところまでやるわけですから、
面倒くさいと感じる人にとってはこの上なく面倒くさいことをやっているはず。
ということを考えたときに、あ、これが俺の武器なんだ、と思ったわけです。
ザッカーバーグにできないこと俺やってるわ、と。
イチロー超えてるわ、「部分的に」と。笑
ああ、そうか。自分は自分で良いのか。
だって自分と同じようなことをできない人がたくさんいるわけだから。
その人たちの代わりに、自分がそうやって向き合う役割を果たせばいいのか、と思い至ったのです。
なんて言うんでしょう、地球全体がチームで、そのチームがより良いところを目指しているとして、
その中で「向き合う担当」「洞察担当」「言語化担当」を任されているという感覚。
それぞれ、担当があると思うんですよね。
もし、学校で、「体育係」が、
体育係の俺、マジ終わってるわ…、と自分を責め始めたとしたらどう思います?
「俺、あかんねん。体育のことしか考えられへんねん、マジ最悪…」
いや、あの、それでいいよ?
「この間な、文化係の奴がおってな、めっちゃ行動量すごいねん。めっちゃ劇のこと考えてんねん。もう、すごい行動力でな。俺、劇について野望も野心もない、ホンマどうしようもない男やなって…
あかんあかん、と思っても、体育のことばっかり考えてしまうんねん。
ホンマ、やる気ないわ…
なあ、教えてくれや。どうすればやる気出んねん!
なあ!
どうすれば出んねん!
やるきい!」
…。
えっと、体育やってたら良くない?
という話です。
その人は体育係なんだから、そもそも。
大事なのは、
「わり、俺、それ全然興味ない」
と言えること。
「私、それ欲しくない」
と言えることです。
誰かが何かに向けて超頑張ってたとします。
それはそれで素晴らしいことです。
でも、その人が、
「お前もがんばらんかい!!!」
みたいなこと言ったら、
「おれ、それ、どうでもええわ」
と言えばいい。
それが言えないからずっと悩んでいるんですよ。
どうでもいいことにはどうでもいいと言えばいい。
ただそれだけです。
でも、もしその人が劣等感に侵されてたら、許してもらえないと思います。
なぜなら、その人にとって恐ろしいのは、
「同じ土俵に立ってもらえない」ことだから。
同じ土俵に立ってもらえなかったら、比べられないでしょう?
比べられないと、勝てないでしょう?
だから、無理やりにでも、あなたを同じ土俵に立たせようとするはずです。
同じ土俵に立たせるとは、あなたの価値観を否定して、自分の価値観で物を見ることを教え込むということです。
恐ろしい…
自分が得意で勝てる土俵にあなたをつれてきて、あなたはその土俵が苦手だから頑張れないのですが、
そのあなたに「お前はダメだ」と言って、あなたを否定して、
自分は勝ち誇っているというわけ。
そりゃ、その人はそこが自分の土俵なわけですから、勝てますよ。
でもそれ、全然人間の多様性を認めてません。
多様性があるから、うまくいくのに。
お互いを補い合い、支え合うことができるのに。
大事なことは、自分は自分の土俵で生きる、ということです。
人の土俵に乗っているから苦しいのだと気づけってことです。
でも、気をつけて。
劣等感が強い人は、いつもあなたを自分の土俵に乗せようと手ぐすね引いて待ってますからね。
だから、
どうでもいいです、興味ありません、ほっといてください、勝手にやってればいいんじゃないですか
などなどのセリフを言えるようにしておくことが大事なことです。
ちょっと長くなったので、今回はこのへんで。
では。
:いけじゅんBAR第2回「なぜ、大きな目標はあるのに行動できないのか?」もよろしくです!
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