誰かが心から何かを楽しんでいる姿を見ると、自分も楽しみたくなってくる。
誰かが気持ち良く歌っている姿を見ると、自分も歌い出したくなる。
誰かが楽しそうにダンスを踊っていたら、自分も踊り出したくなる。
楽しんで歌っている人、踊っている人は、決して周りを歌わせようとか踊らせようという意図はない。
つまりは、周りを変えようという意図はない。
ただ、自分が楽しんでいるだけ。
だけど、自分自身が満たされ、楽しんでいるそのあり方は周囲に大きな影響を与えていく。
変えようとしないあり方が、周囲の変容を促していく。
ダンスを踊るとか、歌を歌うとか。
そういったことは物質的な価値という観点から見ると、ほとんど価値はないように見える。
でも、その人の心というのか魂というのか、そういったものが躍動している姿を見ることで自分の心も共鳴し、
自分自身も心のどこかでしたいと思っていたことをしたくなる。
つまり、自分にとっての歌やダンスをしたくなる。
心がくすぐられ、刺激され、本来の自分を思い出させてくれるという精神的な価値は計り知れない。
だけど、結果的に起こるその精神的な価値も、歌い手や踊り手にとってはどうでもいいこと。
それは起こそうとして起こるものではなくて、起こそうとしないことで初めて、自然に起こることなんだと思う。
文章を書くことだって同じだ。
文章を書くとは、ダンスを踊ることである。
という、分からない人にはさっぱり分からない、名言っぽいことを書いてみる。これもダンスの一つ。笑
ある意味、自分が楽しいし、自分が「そうだそうだ」と思いながら書いているにすぎない。
それをどう思うかは、読者に委ね、判断も評価もそれぞれの感覚に委ねたい。
ただ自分は書きたいように書いているだけだから。
文章を書く手が止まるのは、自分の内側から来る躍動感や楽しいと感じる感情を忘れ、
恐れや義務感、誰かより勝りたいというエゴに飲み込まれ、自分自身を見失ったとき。
そういったとき、書くことは苦しくなってくる。
苦しみながら書くということを経験することで、苦しまずに書くということを知る。
こんなことを書いているのも、「苦しまずに書きたい」という願望があったからであり、「苦しまずに書けるはずだ」という確信もあったからなのだと思う。
書くということに対する自分なりの軸というのか哲学というのか、そういうものがだんだんと深めていくにつれ、
それは書くということだけでなく、生きるということにもつながってくるように思えてきた。
文章を書くとはダンスを踊ることであり、生きることもまたダンスを踊るようなものなのかもしれない。
という、独り言でした。
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