自分の人生がちっぽけだと嘆く男

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<この物語はフィクションです>

 

男は見るからに平凡なサラリーマンという外見をしていた。黒のスーツに、薄い青とグレーのストライプのネクタイ。メガネをかけ、髪に気を使っているようにも見えず、体型はお世辞にも痩せているは言えなかった。

男は酒には強いらしく、3杯目となるウイスキーを飲みながら、私の隣で日頃の愚痴や己の情けなさについて語っていた。

「私も色々とやりたいことや、やろうと思っていることがあるのですが。嫁と子供がいましてね。自分だけのことを考えていればいいってものじゃないのが、大変ですよ」

「そうか」

「あなたは、結婚されているのですか?」

「独身だ」

「そうですか。いいですね、独身というのは。懐かしいですよ」

「独身には独身なりの悩みってのもあるもんだ。どういう立場になろうが、悩みがあるということに変わりはない気もするがね。人間っていうのは所詮、ないものねだりなのさ」

「そういうものですかね」

一息つくと、男は、4杯目となるウイスキーを注文した。

「世の中、すごい人がいるものですよね。それに比べて、私など平凡なもんです。サラリーマンやって、結婚して、子供ができて。もっと違う人生があったんじゃないか、と思うことがあります」

「違う人生ね」

「ええ」

「いつからそう思うようになった?」

「最近ですかね。色んな人を知れば知るほど、自分がちっぽけだと感じますよ」

「昔、あんたはどんな人生を送りたいと思っていたんだ?」

「昔、ですか。…そうですね。昔は、子供が欲しいと思っていました。自分はきちんと働いて、ちゃんとした家庭を作ろうと…」

そのとき、男のスマホが鳴った。LINEでメッセージが届いたようだ。

「誰から?」

「妻からです。最近、俺が飲み過ぎているのを心配して、『飲み過ぎないでね』とメッセージを送ってくるんですよ。こんな風に子供の写真まで載せて」

男は私にスマホを差し出した。見ると、そこには一人の女の子が映っていた。

「へえ。かわいいじゃないか」

「そうでしょう」

そのとき初めて、男の顔から笑みがこぼれた。

「あと、あれだな」

「何ですか?」

「俺には、そんな心配をしてくれる人はいないな」

「……」

「なあ。あんたは、自分が大事だと思っていたものを、大事にしてきたんじゃないか。それが、あんたの今の人生になっている。自分が大事だと思っていたものを大事にした結果、その通りの人生になっている。それの何が問題なんだ?

ただ、色んな価値観を知って、あんたの中で色々と知りたいこと、やってみたいことが出て来た。それはそれで良いことだ。だけどな、だからといって、今まで大事にしてきたものを否定する必要はあるのか?」

「……」

「奥さんや子供を大事にしてきた人生を、ちっぽけなんて言うもんじゃないぜ」

「…さっきの言葉、撤回します」

「やりたいことや知りたいことが出て来た。それは単に、大事にしたいものが増えただけの話だ。もしそれをやってみたいなら、ちゃんと奥さんに話してみたらどうだ?あんたが本気で何かをやってみたいなら、応援してくれるんじゃないか?

奥さんは邪魔な存在なのではなく、あんたの味方かもしれんぜ」

「かもしれません」

「とりあえずだ」

「はい」

「あんたがいるべき場所がここではないことは、確かだな」

「……」

男は、持っていたグラスを置くと、財布から取り出した金をマスターに渡し、失礼しますと言って店を出た。

「マスター、客が帰っちまった。また、悪いことをしたな」

「全くです。今日は、あの方の分も飲んでもらいましょうか」

「参ったな。俺がそれほど飲めないの、知っているだろう」

「冗談です」

笑いながらそう言って、マスターは男がいた席を片付け始めた。

ふと、男が飲んでいたグラスに目を向ける。

そこにはまだ、半分以上のウイスキーが残っていた。

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